ぼくらはまちの探検隊



緑チーム

まちの建物に隠された暗号を解け

4回目 古い地図の学習とインタビューの準備、2度目のまち探検

1月に上原のまちの地形を模型にしてから4ヶ月という空白期間があったため、久しぶりに隊長らと顔を合わせた隊員たちであった。この日はまず、上原のまちの歴史について古い地図を使って学習するという試みがあった。緑チームでは、1万分の1地形図を明治初めのものから古い順に見て行きながら、どのように道ができてきたか、どのように町が広がってきたかを色鉛筆でなぞりながらたどるという作業をした。
手を動かしながら「ぼくの家の前の道は約100年前にできたんだ!」と歓声をあげる隊員も。「自分の家が面している道はいつごろできたのかな?」と隊長が水を向けると、「100年前!」「80年前」「60年前かな?」と反応がかえってくる。でも、約130年前の明治初めごろの地図に載っていたもっと古い道もある。上原小学校の東側を通る仲通り商店街や、東京大学の駒場キャンパスの北側を通るかつての三田用水沿いの、地形に沿ってゆるやかにカーブした道がそれだ。一方、現在の井の頭通りは約80年前の大正時代の地図に初めて登場するが、「和田堀水道」と名前が付いていて一直線にまっすぐだ。そして昭和20年頃の地図を見ながら、「戦争でこの辺りも焼けたんじゃないの?」と隊員から疑問の声が上がる。「どうだったんだろう?たぶん上原では部分的に焼けたんじゃないかな」と隊長。「えーっ、東京大空襲っていうぐらいだから全部焼けたんじゃないの?」
こんなやり取りをしながら地図の学習が終わると、月曜日の朝礼から休憩無しできたためか「あー疲れた」と叫ぶ子供たち。確かにハードだったかな?


次に春休みの宿題のまとめをしながら、次回に予定しているまちの建物に関係する方々へのインタビューでどんな質問をするかを考えた。
実は春休みの宿題では、どうして建物の形が今のようになったのかを考えるとともに、「建ぺい率」と「容積率」という何やら耳慣れない難しい言葉がどういう意味か問題に出していた。これは難しいので「おうちの人に聞いて書いてみよう」としたけど、結構みんな頑張って書いてきてくれていた。「建ぺい率」と「容積率」に関する説明の紙をコピーして持って来てくれた隊員も。これらはまちに建物を建てる時に守らなければならないルールだが、次回はこのルールについて渋谷区役所の大石さんにもインタビューする予定。
その他、仲通り商店街の建物について洋品店のTさんに、井の頭通りの建物についてビルオーナーのNさんにインタビューする予定。この3人の方にそれぞれ質問する人とメモを取る人、1人ずつ分担を決めた。希望を聞いて、重なったところはジャンケンで決める。担当が決まると春休みの宿題で隊員が書いてくれたことをもとに、インタビューで何を聞くか考えていった。


予定より遅れて、「まち探検」に出かける。今回は、2回目の時にやった「まち探検」の続き。建物が何に使われているかで色分けしたシールを地図にはったり、建物の高さを何階建てかで表現して数字を書き込んだり。余裕があればおもしろい建物も探した。それまで室内にいたせいか、外に出た隊員たちは水を得た魚のように活き活きしだした。以前にもやったことなので、隊長が指示を出さなくとも次々と探検を進める。とても頼もしい隊員たち。二手に別れて予定したエリアを終えると、お腹が空いて給食へとなだれ込んだ。


宿題では、この日にやった古い地図の学習をもとに「井の頭通り」と「商店街のある仲通り」について考えてもらうことに。「どうして井の頭通り沿いの土地には真四角な敷地が少ないのか?」「仲通りはどのくらい古い道で、上原の地域にとってどんな役割を持っていると思うか?」これらを考えていくと、上原の歴史とこれまでの探検で集めた建物に関するデータがつながるかもしれない・・・。